父来たる2009

 父が仕事で東京に出てきたので呑みに行った。父は教育畑の人で、あと1年少しで定年を迎える。ここ何年か県の教育庁で仕事をしていたが、今年度からはまた学校に転属になった。
 その席で聞かせてくれた話がいろいろ面白かったので忘れないうちに書いておこうと思う。
 父曰く……

行政の仕事について

  • 行政の仕事を経験してよかったのは、考え方が非常に柔軟になったことだ。
  • 当の役所の人間も含めて、多くの人が勘違いしていることだが、役所で仕事をするというのは、ただ規則に従うことではない。
  • 役所の仕事はとても多い。誰かのためになんとかしなければならないが、今まで誰もやっていないようなこともたくさんある。そのためにクリアしなければいけない手続きもまた多い。
  • しかし、その煩雑な手続きがあるから何もできないということはない。
  • たくさんの手続きの中で仕事を進めるには、柔軟な思考と想像力が必要になる。要はつじつまを合わせればいいのだ。最終的に帳尻が合えばよい。役所で「ちゃんと仕事をする」ということはそういうことだ。
  • そうした思考ができるようになったことは、行政の仕事から得られた大きな収穫だった。

学校について

  • さて、そこで学校に戻って、改めて現場を見てみると、これは役所よりもはるかに硬直した世界だ。
  • よく現場の教師を指して頭が固いとか、変わろうとしないとか言って人は責めるけれども、そこを責めてはいけない。なぜなら、変わらないというのは学校の本質だからだ。
  • 学校は、基本的に「変化がない」ことで成り立っている。去年この日に運動会をやったから、今年も同じ日に開催する。今までも夏冬春に長期の休みを設けているから、これからも同様のスケジュールで行く。エトセトラ。
  • 学校は同じ場所に建って、同じように存在し続ける。そこに子供たちが来て、成長して、去っていく。その流れが毎年毎年繰り返される。それが学校という場の本質だ。学校で働く教師が変化を嫌うようになるのは当たり前のことだ。
  • しかしそうは言っても、世の中の流れに合わせて、学校も変わっていく必要はある。そこで変えるべきは「演出」だ。シェイクスピアの戯曲は不変だが、演出や役者は変えられる。それは演出家の仕事であり、これこそは管理職の仕事なのだ。
  • 教師一人一人がそれぞれのストーリーを持っている。小さなストーリーの人もいれば、プロットの練り上げられた壮大なストーリーを持つ人もいる。
  • 理屈ではなく理想で、効率ではなくストーリーで学校を変えようとすると頓挫する。
  • 学校をどう変えるかという話をするときは、「今話しているのは効率の話なのか、それともストーリーの話なのか」と常に確認していかなければならない。
  • 教師が変わらないことは悪いことではないし、管理職はむしろそれで安心してよい。
  • 管理職は全体を俯瞰して、この人はこっち、この人はあっちと人材を配置して、そして「魔法をかけなければならない」。
  • こうしろと言っても、「いや、わたしはこうしたいんです」という声はもちろん出てくる。が、そこはちょっとずつ我慢してもらう。そのうちわかるべ、と思っておく。
  • 組織を動かすというのは、なかなかこれで面白い仕事だ。

音楽について

  • 長い間、自分がやりたい音楽と、仕事の兼ね合いで苦しんできた。(※父は音楽をやる人である)
  • この曲を自分のものにしたいと思って練習しているときと、日々の仕事に追われているときでは、あまりに違う。「魂のレベルが違いすぎる」。仕事なんか馬鹿らしくてやっていられないと思う。しかしそういうわけにも行かない。自分が死なないためにも、妻子を養うためにも、仕事を投げ出すことはできない。このギャップにずっと苦しんでいた。
  • これは、時間の尺度を変えて考えることで少し楽になった。仕事はまさに日々の糧を得るための、一日一日を単位としたもの。対して音楽は、もっと長いスパンで進めていくものと考えた。今日のわずかな練習は、ずーっと長い時間の中の一部であって、無駄にはならないのだと。
  • さらに、音楽の本質とはなんだろうと考えるようになった。耳で聞こえるものか。そうではない。聾の人もカラオケに行ってマイクを取って歌うし、イヤホンをつけて曲を「聞く」。そしてそれを楽しんでいる。(※父は特殊教育に携わっている)
  • 耳の聞こえる自分がやるのも音楽だし、聾の人たちのそれも音楽だとするなら、そこに共通する本質とはいったい何かとずいぶん考えた。そして答えを出した。
  • 音楽とは「時間の流れを身体で感じること」であり、それは「美しさを尺度とする」。これが俺の考える音楽の本質だ。

物事の本質について

  • それならば、音楽以外の教育科目の本質はなんだろうか。
  • 国語の本質は「言葉には力がある」ということだ。
  • 算数の本質は「世の中は数式と図形で表すことができる」ということだ。
  • 社会の本質は「世の中にはいろいろな仕組みがある」ということだ。その仕組みには、歴史に由来するものも、地理的なものもある。
  • 理科の本質は「世の中のことは法則で説明できる」ということだ。ただし、「ただし、たいていの場合は」と但し書きがつく。
  • その「たいていの場合」を外れたものはないんですかと聞かれたら、「ありますよ」。それはなんですか? 「偶然です」。
  • その偶然を扱うのが確率だ。確率とは、100%ではない物事を扱う学問だ。
  • ここでいう「本質」は、あくまで「俺はこう思う」というだけのものであって、本来それぞれが考えるものだ。
  • さて、こうして各科目の本質を見てみると、これもよく批判の的になる文科省の学習指導要領とはまったく矛盾しないで教えられることがわかる。
  • なぜなら、本質だけぽんとあっても教えることはできない。たとえば、パソコンの本質は「「ある」のと「ない」のがある」ということだが、それがわかったからといってパソコンが使えるわけではない。
  • パソコンの0と1を使うにはOSが要るし、マニュアルも要るように、学習指導要領は単なるマニュアルである。
  • 本質がわかれば、逆に学習指導要領を便利なマニュアルとして使うことができるようになる。

宗教について

  • こういうことは昔からいろんな宗教がやってきた。だから、どの宗教も言ってることは同じだ。ただし幸福実現党は除く。
  • 幸福実現党は、あれは宗教の名に値しないな。あれはもぞだ。(※もぞ:秋田語。わけのわからないことをしているさまを表す。「もぞをこく」で動詞となる。ニュアンスとしては「挙動不審」に近い)
  • 俺も昔仏教に興味を持っていろいろ読んだことがあったが、なんだ、全部仏教が既にやってしまっているのだなと思った。寺で葬式をあげて云々を仏教だと思ったら間違いで、あれはものの考え方を教えているのだ。
  • そういう意味では、オウムは案外核心を突いていたのだろう。しかし独自なものというのは何もなくて、あれに惹かれた人はクンバカとかヘッドギアとか上っ面のファッションの部分に目をくらまされた。古典に当たっていれば、とっくに既出の思想であることがわかったはずだ。
  • 仏教でもキリスト教でも、「なになにである」とは断言しない。「お釈迦様はこう言った」「主は言われた」と伝聞調で書く。孔子もそうだ。「子のたまわく」という。つまり、私の言葉ではないですよ、私は伝えているだけですよと言っている。
  • 世の中にオリジナルというものは存在しない。誰もが先人の考えに影響されている。自分というのは空っぽなのだ。
  • だから、「俺が考えたのだ」という人の言葉は眉に唾をつけて聞かなければならない。

身だしなみについて

  • 爪は切れ、髪も整えろ。
  • 言葉と、身だしなみと、行動が人を形作る。全部つながっている。
  • いるだろう、若いのにどよんとした雰囲気を漂わせている人が。話してて元気になるようなことを言わない人が。
  • 親は身だしなみが人格形成につながっていることを直感的にわかっているので、子供がだらしないと注意する。
  • 子供の外側に顕れているものの中にマグマのようなものがある。親はそのマグマをいいものにしようとする。それは親の似姿として、親自身にもフィードバックされる。
  • だから身奇麗にしておくのは大事なことだ。

愉快ということについて

  • まだはっきりと言葉にはできないが、最近は「愉快」ということについて考えている。
  • 癌で入院したとき、病室の窓から、最初は短かった田んぼの苗がだんだん伸びてくるのを見て、「ああ、なーんだ」と思った。俺が死んでも稲は育つし電車は走るし、それだけのことなのだ。
  • どうせいずれ死ぬのだから、くよくよ考えるよりも愉快に生きた方がなんぼかいい。わざわざ死ぬことを考える必要はない。
  • ところが、物事の本質を考えていると、どんどん不愉快になる。なぜなら世の中、本質から外れていることばかりだからだ。
  • そのために必要なのが「気にしない」ということだ。
  • 愉快に生きるということにはある種の覚悟が要る。
  • 「愉快に生きる」「本質」「気にしない」この三つが、まあ、父の哲学だな。

 
「これ書いてもいい?」
「おおいいよ。俺もこういうことをどう伝えるべかなと考えているがなかなか難しい。書くというのは、俺の言葉をお前のフィルタを通してどう取捨選択するかということだな、まあやってごらんなさい」