死ぬことと見つけたり

死ぬことと見つけたり(上) (新潮文庫)

死ぬことと見つけたり(上) (新潮文庫)

死ぬことと見つけたり(下) (新潮文庫)

死ぬことと見つけたり(下) (新潮文庫)

 佐賀鍋島に二人の侍がいた。一人は斎藤杢之助(さいとうもくのすけ)。毎朝目を覚ますと、頭の中でさまざまな死に方をシミュレートし、念入りに「死んでおく」鍋島武士の鍛錬を欠かさない死人(しびと)にして、銃の扱いに秀でた真正のいくさ人である。
 もう一人は中野求馬(なかのきゅうま)。やはり死を恐れない鍋島武士であるが、立身出世を一途に追い求める。我が身かわいさのためではない。「主君にずけずけと諫言し、憎まれて、ついには腹を切らされることこそ武士の生き様」と主張し、その通りに死んでいった父の妥当性を自ら確かめるべく、殿様の御傍に近づこうというのである。
 二人の若者は、その実力をもって徐々に名を知られるようになり、やがて鍋島藩存亡の危機に深く関わっていくことになるのである。
 いやあもう、めちゃめちゃ面白かった。何よりも主人公二人の生き様、特に杢之助のそれがすさまじい。求馬はまだ多少なりとも社会のしがらみに囚われているが、杢之助は常在戦場の死人なので、何者もその行く手を阻むことはできない。敵にも味方にも「斉藤杢之助にだけは手を出すな」と恐れられるバトルクリーチャーである。それも実戦刀法に秀でているだけではなく、メインウェポンが銃器なのが珍しい。狙撃の達人と至近距離で撃ち合うわ、馬上筒で早抜きするわ、遠町筒を持ち出して街中で遠距離射撃するわ、もうやりたい放題の超人演出てんこもりである。
 だがこの本の真の恐ろしさは、そうしたケレンの部分にはない。そもそもこの本は、エンターテインメント化された『葉隠』なのである。杢之助はじめとする登場人物たちは、「死ぬことと見つけたり」という言葉の意味を、自らの生き様を通して読者に提示する。「死人」として在ることがいかなる意味を持つのか、そして既に「死んだ」者にどれほどのことができるのか、それを突きつけてくる。死ぬことを当然と考える杢之助や求馬の行動は、周囲に凄まじい衝撃を与える。では、翻って考えて、読者である自分が(比喩ではなく)死ぬ気になったとき、一体どれほどのことが為せるであろうか、と考えずにはいられないのである。『葉隠』はつくづく恐ろしい。それを判りやすく噛み砕いてしまった『死ぬことと見つけたり』は更に恐ろしい。これは人の生き方を一変させうる危険な書物であり、西欧的価値観に基づいた文明社会を揺るがす可能性を秘めた大悪書である。全霊をもって一読を推奨する。
 ちなみにこの本を手に取る切っ掛けになったのは「インターネット殺人事件」の紹介記事であった。厚く御礼申し上げる。
 なお、これを読みながら選挙報道など見ていると、「なぜこの男は腹切って死なんのだ」とか、「奸賊誅すべし」とか、「士道不覚悟なり」とか、危険な思考が頭の中を次々に過ぎるので不穏当極まりない。こうした思考を突き詰めていくと、ひょっとすると、又吉イエス氏の背中が見えてくるのかもしれない。