アバターは掘骨砕三映画だよという話

 Twitterで適当なことを書いていたら、にわかに腑に落ちたのでこちらでまとめる。ネタバレ注意。
 『アバター』を観たときに、説明しがたい微妙な既視感をおぼえていたのだが、その原因がわかった。
 あの映画は掘骨砕三の漫画に似ているんだ。
 『アバター』が、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』のような「白人meetsインディアン」ものと決定的に違うのは、主人公が文化的に感化されるだけでなく、身体ごと異種族に変容するところだ。しかも、そこに葛藤がない。ごくあっさりと、当たり前のように変容を受け容れる。これがあの話をわざわざSFでやる理由で、とても掘骨砕三的。
 人間から異種族の身体になって、異種族のヒロインと恋愛して、セックスまでするのに、なんにも悩まないでしょあの主人公。
 しかも面白いことに、周りもたいしてそこを問題視しない。汚らわしいとか、頭おかしいとか、誰も言わない。ラボの仲間だけでなく、敵である軍人ですらそこには突っ込まない。そのあたりも実に掘骨っぽい。

 掘骨ワールドでは、性どころか生物種の壁すら恋愛の障害にならない。身体が変容して、しばしばかなりグロテスクな姿かたちになっても、本人たちはなんとなく適応してラブラブちゅっちゅしてる。
 五体満足な人間の正しい恋愛、みたいなものに憧れる人にとっては悪夢のような世界だけど、居心地がいいと感じる人も少なからずいると思う。
 でね、あの居心地のよさは、恋愛が社会の視点から解放されてることから来るんじゃないだろうか。
 恋愛はこうあるべき、というしがらみがない世界。「異なるもの」との付き合い方が既定されない世界。
 少し前に、「『アバター』で現実に絶望するファン続出」てなニュースがあって、アメリカ人アホだなあハハハとか思ってたんだけど、そういう視点から考え直すと、絶望した人の気持ちもちょっとわかる気がする。映像の美しさだけでショック受けたわけじゃないだろ、いくらなんでも。掘骨先生大好きな僕は、惑星パンドラに行きたくて泣く彼らを笑い飛ばせなくなってしまった。
 『アバター』のエンディングでは、主人公は人間の身体を捨てて、ナヴィとして生きることを選んだけど、もう一つ別の終わらせ方もできた。義体が壊れてしまって、人間の姿でナヴィと共に生きる道だ。身長3mのネイティリが、ナヴィにとっては醜い異種族であるはずの、恋人の「中の人」を抱きかかえて優しく見下ろしているあのシーンは、『アバター』の中でもっとも心を揺さぶる場面だと思う。冒頭で書いた既視感にも、この場面で気づいたのだった。
 訓練された掘骨ファンの皆さんは、脳内で掘骨絵の『アバター』を想像してみるといいよ。違和感なくてびっくりするから。
 読んだことない人には、一般向けの短編集であるところのこちらがおすすめです。

クロとマルコ (ヤングチャンピオン烈コミックス)

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