私たちの仲間―結合双生児と多様な身体の未来

私たちの仲間―結合双生児と多様な身体の未来

私たちの仲間―結合双生児と多様な身体の未来

 互いの身体が融合した形で生まれてきた結合双生児を目にしたとき、「健常者」は少なからずショックを受ける。あんなふうにくっついていてはまともに歩くこともできないし、プライバシーを保つこともできまい。外に出たら好奇の視線を浴びることは間違いないし、行く先々で差別されるだろう。
 だから、彼らは分離されなければならない。
 分離手術が上手くいけば、結合双生児は一人ずつに、二人の個人になれる。腕や足や性器を互いに分け合わなければいけないかもしれないが、それでも融合しているよりはいいはずだ。何より、彼ら自身も分離を望んでいるに違いない。
 この本は、そうした考え方に真っ向から疑問符を突きつける。
 結合双生児として生まれることは、はたして本当に不幸なのか? 実は、当の本人たちにはそんな意識はない。彼らは自分の身体を格別醜いとは思わない。結合双生児ではない私たちと同じように、自分の身体が好きである。上に述べたような「健常者」の考えに沿って、これまで何度となく分離手術が行われて(そして、その多くは失敗して)きたが、自分から分離手術を望んだ結合双生児はほぼ皆無といってよい*1
 彼らは分離を望んでいない――。この事実は恐ろしい認識をもたらす。私たちが、「結合双生児の分離手術」という概念そのものに違和感を抱かず、分離手術を心のどこかで当然のことと思っているならば、それは、善意に基づいて生きた人間を真っ二つに切断するという、凄まじい暴力を肯定することにつながるのである。
 想像してほしい。あなたの周りの人間が、みんなあなたの右半身と左半身を分離すべきだと言い出すことを。両親も、医者も、マスコミすらも、あなたは真っ二つにされるべきだと当然のごとく主張する。あなたが成長した大人であればまだ拒否もできるかもしれない。しかし多くの場合、分離手術が行われる対象は、まだ幼い子供なのだ。
 もちろん、著者はこうした「健常者」の考え方を単純に糾弾しているわけではないし、分離手術を全否定しているわけでもない*2。著者の専門はもともとインターセックスで、スタンダードな「男性」「女性」の範疇からこぼれてしまう人々の生き方を研究していた。結合双生児に関する著者のスタンスも同様である。私たちの社会は身体が「普通」であることに非常に重きを置いており、そこから逸脱する者はさまざまな困難に直面する。結合双生児はそうした逸脱者の最たるものだ。何しろ私たちが当然のものと思い込んでいる「個人」という枠組みすら破壊してしまうのだから。結合双生児の分離手術は、本当は彼ら自身のためではなく、彼らを見る者たちのために行われてきたのだ。
 著者の鉾先は一貫して、ユニークな身体を持って生まれてきた人々を排除しがちな私たちの社会に対して向けられている。「障害とは動かない足ではなく、スロープを作らないことだ」という印象的なフレーズが示すように、結合双生児を障害者と見なしたとき、そこには鏡に映したように、私たちの社会の持つ障害が姿を現しているのである。
 

*1:まだ憶えている人も多いかと思うが、2003年にシンガポールで分離手術を受けたイラン人の結合双生児、ラレとラダン姉妹は、なんと史上初めての「患者の自由意志による」結合双生児分離手術であった。つまり、自ら分離を望んだ結合双生児は、まだ一組しかいないのだ。

*2:分離しないと両方の命が危ないケースや、その逆で癒着部分が小さいために何の問題もなく分離できるケース、あるいは双生児の片方が身体のごく一部しか発生しておらず、分離しても生命倫理的に問題ないと考えられるケースもある。また結合双生児やその親が極端に差別されることが予想される環境においては、分離の決断はある程度の重みを持つと言えるだろう。