言うまでもなく、人間は地球上で三番目に賢い生き物だ

 なんかインテリジェント・デザインなるものが話題らしいとは気づいてて、人間工学的なサムシングなのだろうと思ってたらそっちかよ! なあんだ。
 リンク先で引用されてるこの文章、

 大自然の中で働いているのは盲目の物理的力だけであり、これによってすべてを説明しなければならず、またできるはずだという前提があまりにも強力に支配してきたために、長いことこれを批判することができなかったのである。それが恨みを晴らすように堰を切って、さまざまの分野のアメリカを中心とする科学者・哲学者の間から一種の科学革命運動として現れてきたのが、一九九六年「インテリジェント・デザイン・セオリー」という呼称のもとに展開されるようになった理論である。
 誰がどう考えても、生命とか進化とか心(意識)の問題を物理力だけで説明できるとは思えない。この宇宙の本質は創造であって無目的の機械作用ではないことは直観でわかる。しかし、そう思えてもそれは間違った考え方だというようなことを、我々一般人が立ち入ることもできぬ専門分野の学者が主張すれば、我々は引き下がるよりほかなくなる。科学者の間でさえそれに対する批判は封じられてきた。その批判運動がほかならぬ科学者の間から始まったということには、どれだけ大きな意味があるかわからない。

 銀河ヒッチハイク・ガイドを読み返したばかりのせいか、ダグラス・アダムスの文章みたいに見えて笑けてきます。そう思えばほら、腹も立たない。ちなみに原作にも神の存在についての一節があって、神の存在する証拠を元に、神の存在が否定される、というこんがらがったことになっています。映画にも登場したバベル魚にからんだネタでした。
 元文章からもう一文。

戦闘的ダーウィニストとして有名なオックスフォードの生物学者リチャード・ドーキンズの、好んで引用される言葉がある。「進化ということを信じないという人間がいたら、その人は間違いなく無知か、愚鈍か、狂気かのいずれかである(邪悪と言いたいところだが、そこまでは言わないでおこう)」――こうまで言わなければならないのはなぜであろうか、その意味を考えてみるとよい。

 無知か、愚鈍か、狂気か、ひょっとすると邪悪な人間に、ドーキンス先生が相当いやな目に遭ってるからだと思われ。そういえばドーキンスはダグラス・アダムスの親しい友人でもありました。
 「知性によるデザイン」ならぬ「知性のデザイン」だったら、昨日読み始めたイーガンの『ディアスポラ』の冒頭がちょうどそんな感じ。