天安門事件記念日

 天安門については通り一遍の説明しか知らなかったので、以前町山智浩さんのid:TomoMachi:20040313を読んだときには少なからず驚いた。自分の曖昧な知識と真逆のことが書かれていたからだ。町山さんのことだからいい加減なことは書かないだろうけど、でも、えー、本当?と半信半疑だったのが正直なところ。で、しばらく放置していたのだけれど、今日がちょうど天安門事件の起こった日だということでちょっと調べてみた。検索ワードを変えつつ結果を流し読みしていくうちに、「映画『天安門』監督カーマ・ヒントン氏インタビュー」というページを見つけた。町山さんの記事の中でも書かれているドキュメンタリー映画、『天安門 THE GATE OF HEAVENLY PEACE』の監督だ。これがかなり面白かった。広場での虐殺の真偽について触れているのは以下の部分。

Q:映画を見ると、天安門広場では死者は出なかったという印象を受けますが。

A:そのように言うべきではありません。「死者が出なかった」、このような言い方は決め付け過ぎです。私は天安門広場そのものでは、大規模な虐殺はなかったと考えています。流れ弾に当たったり、戦車にひき殺されたりした人が何人かいたのかもしれませんが、我々は知ることができませんでした。私は「広場では絶対に死者はでなかった」という言葉に責任は持てません。ただし、大規模な射殺、数十、数百人の死者が出たかどうか? 私の入手できた資料では、出ていません。

Q:死者が出たならば、それは広場の中でも外でも同じことでしょう。映画の中で侯徳健の話が引用されていて、彼は朝の6時過ぎまで広場にいたが、広場での死者を見ていないと言っています。あなたはどんなことを伝えたかったのでしょうか?

A:政府が銃や戦車で平和的な抗議に対処する、それはどんな場所で発生しようと間違いです。どこで死者が出て、どこで出ていない、ということを区別することにあまり意味はありません。ただ、一つの確かな歴史的な出来事を伝える上で、学生側としても、どこで死者が出たのか、どこで虐殺がありどこで無かったか、道義的な意味では区別する必要があります。つまり、実際に大きな犠牲を払ったのは多くの労働者、市民と一部の学生でした。彼らは市内の道路で撃たれて負傷したわけです。一方、広場中心の記念碑に集まっていた人々は最後は軍隊と談判し、広場から撤退したわけですが、そこでは銃撃、虐殺に遭ってはいません。にもかかわらず、中国から脱出してきた一部の人は、「我々が記念碑から下りると、また機関銃が我々を撃ち戻した」と言い、柴玲は去年でもまだアメリカの記者に「銃弾は私を選ばなかった」と言っていました。この言い方はあまりにも度が過ぎている。それでは「私は銃弾の雨の中から逃げてきたもので、私は銃撃と出くわした」ということになる。銃撃を受けなかった彼女が、自分はあのような虐殺に遭ったと言うのは本当に亡くなって犠牲となった人たちに対して不公平なものです!

 この視点は公平で、信頼に値するものに思える。撮影の背景や経緯も非常に興味深いので、町山さんの記事と、そこで紹介されている「天安門広場の虐殺」伝説の創出・伝播とその破綻」*1と併せて目を通しておくことをお勧めしたい。勉強になりました。